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東京高等裁判所 昭和46年(う)1574号 判決 1971年10月14日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人金原藤一、同亀井忠夫連名提出の控訴趣意書記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。これに対する当裁判所の判断は、次のとおりである。

控訴趣意書第一点について。

所論は、原判決は医師金本万有に対する尋問調書に証拠能力を認めて、これを採用して、被告人は、本件追突事故によつて被害者申に対しては「加療一か年以上を要する第七、一一、一二胸椎圧迫骨折等の」傷害を、被害者盧に対しては「加療約一か年間を要するむちうち症」の傷害をそれぞれ負わせたと認定判示しているが、右金本万有の証人尋問調書には証拠能力がなく、各被害者の受傷の程度は、医師今泉新作成の各診断書のとおり三か月および一か月間の加療を要する傷害に過ぎない。また、原判決は証人神戸賢三の公判廷における証言および鑑識カードには証拠能力および証明力があるとして採証の用に供し、被告人は「呼気一リツトルにつき〇・二五ミリグラム以上のアルコールを身体に保有し、その影響により正常な運転が出来ないおそれがある状態で」自動車を運転した旨認定判示しているが、右各証拠は信憑性に乏しく、信用できない。被告人はアルコールの影響によつて正常な運転ができないおそれのある状態ではなかつた。原判決は採証法則に違反して証拠能力もしくは信用するに足りない証拠を採証の用に供し、よつて判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認を冒かしているから、破棄を免れないという趣旨の主張をしている。

しかしながら、原判決には所論のごとき採証法則の違背はなく、また原判示各犯罪事実は、原判決の挙示する名証拠を綜合して所論の各被害者の傷害の程度、被告人の身体におけるアルコール保有量、酒酔いの程度の各点を含めて、総べてこれを肯認するに足り、原判決には事実誤認の違法は存在しない。すなわち、先ず、所論の医師金本万有に対する証人尋問調書の証拠能力について考察するに、同尋問調書中の同医師の証言によれば、なるほど各被害者を診断したのは同医師一人ではなく、同医師も常時被害者らに接し診療していたものではなく、また、同医師の証言内容も他の医師が各被害者の診療につき記載したカルテを見ながら証言したものであることが認められるが、同医師はその医師としての立場において被害者らの状態を診断把握していたものと認められ、単なる伝聞証言をしたものとは認められないから、医師の患者に対する病状の証言とし許容し得ベきものと認むべく、殊に亀井弁護人は原審において右医師の尋問の際立会つており、その後尋問調書の証拠調に際しては金原弁護人共々何らの異議をも止めていないのである。原審が右証人尋問調書を各被害者の受傷の程度について採証の用に供したのは相当であつて、何ら違法、不当ではなく、これに対し証拠能力の欠缺を云々し、憲法第三七条第二項、刑事訴訟法第三二〇条第一項の違反があるなどという所論は当らない。同調書、原判決の掲げる診断書二通および原審証人申相澈の証言、盧永植の司法警察員に対する供述調書を綜合すれば、各被害者らの受傷の程度は当初医師今泉新の診断予測に反し、治療期間が長くなつたことは認められるが、結局原判示認定のとおりであると認めるに足りる。各被害者らの受傷の程度についての原判決の認定には、事実誤認は存在しない。次に、原審証人神戸賢三の証言および同証人が作成した鑑識カードの証明力について考察する。この点に関し、所論は、被告人は当夜おにぎり屋貴美代において、富沢、東海林および同店のマスターと四人でビール四本を飲んだようであるが、これはアルバイトにきた富沢の労をねぎらうために飲んだものであつて、主として飲んだのは富沢であり、被告人はビール一本程度しか飲んでいない。被告人の飲酒量からみると、鑑識カードの検知管の示度が一・〇ミリグラム以上という判定は科学的、客観的真実に反する。ビール一本で右検知管の示度が一・〇ミリグラム以上の数値となる筈はない。先ず、この点からも鑑識カードの記載は信憑性に欠ける。そして、富沢および被告人は、鑑識カードに記載されているように被告人は言語がしどろもどろであつたとか、ふらふら歩きであつたとか、直立できず左右にふれるなどと供述しておらず、逆に被告人の言語はしつかりしており、歩行能力も直立能力もしつかりしていたと言つている。のみならず、神戸証人は自分一人で鑑識カードを記載したに過ぎず、飲酒先の取調もしていないし、共に飲酒した人から被告人の言語状態、歩行状態について被告人の言動が普段と違つているかどうかを聞いていない。この点鑑識カードの記載方法については、何ら客観性、公正性は保障されていないと言える。なお、記載当時記載者に対するテストがなされていない。しかも、鑑識カードの記入欄、いくつかの状態がすでに書きこまれていて、これに○をつけるだけであるため、警察官が自分の眼でしつかりと確かめ、かつ自分の頭で考えて記載することなく安易に捜査官として重い症状に○をつけがちとなることは十分考えられる。しかして、神戸証言は二年前の過去の事実を証言するには余りにも明確であり、断言的であり、証明力に欠けると言うべきである。原判決挙示の右神戸証言および同人作成の鑑識カードは証明力を欠いており、鑑識カードに至つては証拠能力さえも認めるべきではない。さらに道路交通法にいわゆる「正常な運転ができないおそれがある状態」の「おそれ」とは抽象的な可能性を指称するものでなく、具体的に相当程度の蓋然性をもつものでなければならないところ、原判決は、この具体的に相当程度の蓋然性をもつ点について、判示しておらず、その証拠もないなどと主張する。なるほど、被告人は原審公判廷において、本件当夜おにぎり屋でビール一本半位飲んだだけだと供述しているが、原判決の掲げる被告人の検察官に対する供述調書中ではビール三本位を飲んだと供述しており、原審証人東海林勉は、マスターが二、三杯飲んでいるが被告人は富沢と二人でビール五本位飲んでいる旨証言している。右被告人の検察官に対する供述調書は被告人の原審公判廷における供述に対比して措信すべく、被告人は当夜少くともビール三本を飲んでいるものと認められる。従つて、鑑識カード記載の検知管の示度が呼気一立につき一・〇ミリグラム以上であつた点に疑いがある旨の所論は前提に誤りがあるといわざるを得ない。しかして、検知管の示度が呼気一リツトルにつき一・〇ミリグラム以上であつてみれば、被告人の酔の程度は、特段の反証のない限り正常な運転ができないおそれのある状態であつたと認めるのが相当である。被告人は原審公判廷において、警察官に取り調べを受けたとき言語がしどろもどろではなく、ふらふら歩きをしたようなことはない。直立してみろと言われたこともないなどと弁解しているが、一方、「衝突したことでシヨツクを受けたため言語が明確でなかつたかもしれない。」「私は普段話をするときも声は小さい方ではなく、自分では普通に喋つている心算でした」などとも供述している。そして、被告人車に同乗していた富沢は、同人の司法警察員に対する供述調書中では、警察官の取調を受けた際の被告人の言動については何ら言及していない。(所論は富沢証人というが、同人は原審で証人として尋問されていない。同人の司法警察員に対する供述調書中の供述記載を指すものと考えられる。)ただ、同乗者の東海林勉は、原審公判廷において、被告人の運転態度からは酔つているようには感じなかつたとか、被告人の歩行状況も話し具合も普段と変りはなかつたとか、酒の臭もしなかつたなどと証言している。しかし、同人は原審で適式に証拠調がなされている司法警察員に対する供述調書中では、被告人の酒酔いの程度については何も言及していないのである。被告人が正常な運転ができないほど酔つてはいなかつた旨の右東海林証言および前記被告人の供述は措信できないばかりでなく、鑑識カード記載の被告人の言動、態度等の外観的観察に関する記載の信用し得ることを左右するに足りないものと認められ、却つて原審証人神戸賢三の公判廷における証言によつて、右鑑識カードの記載は正確であつたことが明らかで、十分措信するに足りるものと認められる。所論は、鑑識カードの記載欄の記入方法に不備があり、記入者(見分者)が被告人と一緒に飲酒した人から被告人の歩行状態や言語状態について普段と違つているかどうかを聞いて、見分しなかつたから、その取調べ方法の客観性、公正性は担保されず、かつ記載者(見分者)に対して記載直後に反対尋問によるテストがなされていないから、証拠能力を認めるべきではなく、信用性に乏ぼしいという趣旨の主張をするが、鑑識カードの記載は見分者自身の観察を記載すればよいのであつて、その記載者が証人として尋問されその結果その記載が相当であると認められれば証拠能力も証明力も具備すると認めるのに妨げはなく、所論は独自の見解であつて、採用することはできない。次に、所論は、神戸証言は、二年前の過去の事実を証言するにしては余りにも明確であり断言的であるから証明力に欠けるなどと主張するがこれまた独自の見解で採るに足りない意見である。また、所論は、原判決は被告人が「正常な運転ができないおそれがある状態」であつたという理由につき判示するところがなく、かつこれを認むるに足りる証拠はないと言うが、判決の事実理由の記載は構成要件に該当する事実を記載すれば足り、原判決が掲げる証拠の内容を検討すれば「被告人が正常な運転のできないおそれのある状態」にありながら敢て運転をしたものであることが明らかであり、殊に被告人自身、原判決の掲げる司法警察員に対する供述調書中で「この事故の原因は、私がビールを飲んで酔つて運転し、前の車に接近して走つていたためです、……次第に接近していたのを、うつかりして気付かずいたわけです。これというのもやはり飲んでいたから注意力が足らなかつたものと思います。」旨、検察官に対する供述調書中で「酒を飲んで車を運転し、前の車に追突したことは間違いありませんが、車間距離が短かかつたのではなく酒を飲んで注意力が散漫となつていたことと、前面ガラスを拭こうとして前をよくみていなかつたため減速した相手の車の発見が遅れてしまつたものです。」旨供述している。してみれば被告人は原審公判廷で正常な運転ができない程酔つてはいなかつた旨弁解しているが、前示各証拠に対比して信用することはできない。原判決は、以上説示したところと同趣旨の判断をしたものである。ひつきよう、原判決には所論のごとき訴訟手続上の違法も、事実誤認のかども存在しない。所論は理由がない。

控訴趣意書第二点について。

所論は、原判決は業務上過失傷害と道路交通法違反との関係は刑法第四五条前段の併合罪であるとしているが、両者の罪数関係は刑法第五四条前段の観念的競合の関係にある。また、原判決は情状の項において、「被告人は罰金刑の前科が七回あり、そのうち一回は酒酔い運転によるものであるのに再び飲酒して車を運転し、被害車輛に激しく衝突し」と記載しているが、これによれば、原判決は情状の項においては道路交通法違反と業務上過失傷害とを観念的競合ないし牽連犯として捉えていることになる。従つて、法令の適用において併合罪として捉えた点と矛盾を冒かしていることになる。原判決には法令の適用の誤りがあり、従つてこの点量刑上判決に影響を及ぼすことにもなるから、破棄を免れないと言うのである。

しかしながら、被告人の酒酔いの程度が前認定のとおりである本件においては、所論のごとく道路交通法違反と業務上過失傷害とを観念的競合であると評価すべきではなく、原判決のごとく両者を併合罪とすべきである。この点に関する所論は独自の見解であつて採用することはできない。そして、原判決は量刑の項において、右両者の罪数関係を観念的競合ないし牽連犯として捉えているものとも解し得ない。また犯罪事実において、業務上過失傷害の過失の内容が前方注視不十分であつた旨認定判示しても、量刑事情として前方不注視運転の縁由がアルコールの影響のためである場合には、飲酒運転との関連を考慮するのは当然であるというべきである。原判決の理由に矛盾があるかの如くいう所論は採るに足りないというべきである。

控訴趣意書第三点について。

所論は、量刑不当の主張である。

よつて、原審記録を調査し、これに当審における事実取調の結果をも併せて考察するに、これらに顕われた本件各犯行の動機、態様、業務上過失傷害における過失の内容程度、被害の結果、ことに原判決が情状の項において説示した被告人の前科、(道路交通法違反による罰金刑を受けた回数が昭和四一年より四四年までに七回あり、酒酔い運転を一回含んでいる)過失の内容程度、被害の重大性等についての考察は、すべて当裁判所においても正当としてこれを肯認することができるのであるから、被告人の刑責は重いと言わなければならない。してみれば、所論指摘の被告人の反省態度、家庭の状況、原判決後被害者盧との間に示談が成立し、被害者申に対しても現在まで約二四〇万円の損害額を支払い示談について誠意がないとは言えないこと(ただし、被害者申が法外な損害賠償額を要求しているかどうかは認定することができない。)等を十分斟酌してみても、原判決の被告人に対する禁錮一年(求刑懲役一年二月)の科刑を目して重きに失するものとは認め得ない。なお所論は、原判決は、特に「情状」の項を設け、被告人に不利な情状のみを記載し、有利な情状の記載を全く忘れており、示談に対する被告人の誠意や被害者らに対してすでに多額の損害金を支払つていることを記載していないし、証拠の標目にも被告人にとり有利な妻の公判廷における証言を掲げていない。原審は、公平な裁判所の理念を忘れ、訴追機関と同一の単純な精神構造と論理と立場に立つて量刑の著しく重い偏頗な判決をしている等と主張するが、判文中に被告人に有利な事情を逐一説示する必要がないことは明白であるし、また情状に関する証拠を判決に掲げる必要がないことも明白である。とはいつても、原判決が被告人に有利な事情について量刑上考慮しなかつたなどとは言い得ない。所論は、徒らに根拠のない原判決攻撃をしているに過ぎない。また所論は、昭和三五年以降の著しい経済発展に伴い自動車台数の増大に比して道路網の整備が著しく遅れている。そして交通事故は、かかる道路行政の貧困によつて発生しているのである。原判決は、道路行政の貧困を厳罰主義で補うという単純な心理にとらわれていると思われ、また原判決は日本の労働社会の底辺に横たわる社会問題に対する思考能力と配慮が欠けているように思われるなどと主張しているが、凡そ今日の如き交通戦争ともいわれる情勢下においては、先ず現実の交通事情に応じた運転方法をとるべきであり、所論の如きは酒酔い運転に伴う人身事故を惹起したものである本件の如き案件においては、的はずれの議論となさざるを得ない。そして、本件には執行猶予を付すべき事由があるものとも認め得ない。それ故、量刑不当の主張も理由がない。

よつて、本件控訴は理由がないので、刑事訴訟法第三九六条に従い、これを棄却すべきものとし、主文のとおり判決する。

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